(2)聖書のあれこれ 

 

   聖書は66巻の書物で成り立っています。

 旧約39、新約27です。これを「さんく にじゅうしち」と覚えると教えてくださった先生が

いらっしゃいました。

    この66巻を、すべて誤りない神の言葉とし、「正典」としているのがキリスト教会です。いろ

いろな宗派があり、強調点などは違っていても、聖書を誤りなき神の言葉としているのが正統的

なプロテスタントの立場です。ホーリネス教団と私たちの教会もこの立場に立っています。

 

 現存する原本はありません。たくさんの写本が発見されたことにより、内容が研究され、精査

され、長い年月をかけて今私たちが手にする形態、内容の「聖書」になりました。 

もともと「章」や「節」の区切りはなく、それも後代整えられた部分です。

 

② 旧約と新約

 「旧約はカトリック(旧教)、新約はプロテスタント(新教)の聖書です。」なんて言われて信じ

ちゃだめですよ。はたまた「訳」だと思い、古い訳、新しい訳だと思っている方もいらっしゃる。

この「約」とは契約のこと。

 

 契約であれば、甲と乙がいるわけです。神様、神の民、この両者の間に交わされた契約であり、

その契約がどのようなものであったか、それがどのように履行され、また破棄されたか、それが書

かれているのが聖書、と言ってもいいかもしれません。

神の民とは、旧約ではイスラエル(ユダヤ民族)、新約では教会(新しいイスラエル)をさします。

 

この「契約による結びつき」ということを知らない人は案外多いのではないでしょうか。

 

 契約には双方の利害が明記されます。私はこれこれのことをしますから、あなたはこれこれを

して下さい。はい、条件を了承しました。

対価が見合うという判断の下、双方が自分の責務を履行することを約束したしるしとして交わさ

れるのが契約書です。

 羽鳥明先生は著書の中でこのように述べていらっしゃいます。

  「全天全地の神が、小さな、弱く卑しい私たちと結ばれた契約のことば、それが聖書です。

  その契約は、私たちを恵み、祝福するものです。

   契約の神の二つの中心的特徴の一つは、恵みの神であるということです。私たちの資格

  や価値によらず、ただ無条件の愛のゆえに、私たちに実際的に、具体的に最高の恵みを与

  えてくださると約束しています。

   もう一つの特徴は、真実の神であるということです。私たちがどんなに変わりやすく

  不真実であっても、神は真実であられ、決して恵みの約束を変えるようなことはありませ

  ん。」 (今日の詩篇/明日の詩篇 p256

 

では、契約締結の現場に行ってみましょう。(創世記121節~)

 ここはハラン。

 カルデヤ(チグリス・ユーフラテス川の下流地域)のウルを出てここにたどり着いたアブラム(後にアブラ

ハムと改名)と家族、親族がいます。アブラムはノアの三人の息子の一人セムの流れをくむ子孫です。

 

 カナンの地、後に「乳と蜜の流れる地」と称され、出エジプトを果たしたモーセ一行が目指した

のはこの地ですが、アブラムはその地へ行こうとしている途中でした。

 疲れちゃったのでしょうか、そこが気に入ったのでしょうか、アブラム一行は途中下車。

ハランに住みついてしまいました。お父さんのテラはここで亡くなりました。

 そこは異教の地です。神様もこれはまずいと思われたのでしょう。アブラムに声を掛けます。

「あたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」と。

 

 ここで結ばれたのが「アブラハム契約」です。

神様の約束は、「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。

       あなたは祝福の基となるであろう。」です。

この約束をゲットするためにアブラムのすることは、前述の「あなたは国を出てわたしが示す地に

行きなさい。」ということです。

 かくして、イスラエル(ユダヤ民族)は神に選ばれた民、契約の民となったのです。

 

さて、もう一つの現場です。(出エジプト19章、20章、24章)

 ここはシナイの荒野。

 エジプトの地を出て三月が経っていました。

 モーセは神様にお会いしようと山に登りました。すると神様(主)はこのように語りかけられ

ました。

  「あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの

   ところにこさせたことを見た。それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、     

   わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるで

   あろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、 

   また聖なる民となるであろう。」

 

 ここでこの時結ばれた契約が「シナイ契約」です。

 

 アブラムとの契約が無効になったわけではなく、言うならば更新です。すでに選ばれた神の民

となっている彼らの新たなる出発に際して示された神様の愛のみ手なのです。この契約では十戒

を含む多くの「律法」的な面が事細かに告げられますが、神様の願いは、決められたことを守って

民が生きることでした。

 民の側の約束は、「神に聞き従う」ことだけです。そうすれば、神様は祝福を与え、ご自分の宝の

民として下さる、そういう契約でした。

 

 映画「インディー・ジョーンズ」、大変な反響でしたね。

2作目でしたか、聖櫃を探すというのがありました。

聖櫃は「神の箱」とか「契約の箱」とかも呼ばれますが、その時賜った十戒の記された石板、

それが納められたのがこの箱でした。

 この辺りに興味のある方は出エジプト19章以降を、箱の形態に興味のある方は2510節~

をお読みください。

(他にもノアやダビデと交わした契約などがありますが、主な2つだけにとどめました。)

 

新約の契約は、神様と教会との間に結ばれた契約です。 その仲保者はイエス・キリスト。

 その現場を見てみましょう。

 

 ここはエルサレム。ちょうど過ぎ越しの祭りが祝われている時でした。

イエス様と12人の弟子たちは、用意していた2階の部屋に集まっています。

明日イエス様が十字架につけられるなんて、弟子たちは知りません。

 

 「最後の晩餐」となる過ぎ越しの食卓を囲み、イエス様はおっしゃいました。

 「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流す

  わたしの契約の血である。」(マタイ2628節)(並行記事マルコ14:22-24、ルカ22:14-20、)

 

 このみことばは聖餐制定のみことばとして読まれるところですが、イエス様の十字架で流される

血が契約のしるしだということがはっきり言われています。

 つまり、神様の救済の計画はイエス様の十字架によって完成され、誰でも、イエス様の十字架が

(私の)罪の贖いの為であることを信じる者に救いの道が開かれたことを意味しています。

 

 神様がこの新しい契約で約束されているのは、罪のゆるしと永遠の命です。

 一方私たちがすることは、ただイエス様が十字架に架かられたのは、私たちの罪の贖いのためで

あること、イエス様が救い主(メシヤ)だと信じることだけです。

 

 「信仰義認」といい、行いや人徳などではなく、信仰によって義とされる(救われる)という教

理です。

 これまでユダ人だけに開かれていた「救い」の道が、キリストを信じるすべての民族、国民に開

かれました。罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じるならば、誰でも救いに与れ、約束である永

遠の命をいただくことができる、これが福音です。

 

 このイエス様の血による契約は、旧約の契約を凌駕するものとして、ヘブル人への手紙はこのよ

うに証言しています。

   「このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。・・・彼は、

    いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人人を、

    いつも救うことができるのである。」(7:22~

   「・・・さらにまさった約束に基づいて立てられた、さらにまさった契約の仲保者と

    なられたことによる。もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが

    立てられる余地はなかったであろう。」(8:6-7

 

 神様との「契約関係」というのは日本人にはなかなか理解が難しいですね。これはユダ人なら

ではの感覚かもしれません。ま、難しい事は抜きにして、イエス様を信じれば救われる、という

ことだけを覚えておけば十分でしょう。

 

「関係」と言えば、旧約聖書と新約聖書の関係は? 

 互いに補い合う関係、と言ったらいいでしょうか。旧約が予表(預言)なら、新約は成就、

旧約が土台なら新約は建物・・というように、どちらかだけでは成り立たない関係です。

 聖書66巻は、一見独立した書物が集まっているように見えて、その実、すべてがイエス・キリ

ストへと向かい、結び合わされる一つの書物なのです。

 

   アウグスチヌス 「新約聖書は旧約聖書の中に隠れ、

            旧約聖書は新約聖書の中で明らかになる。」