(3)聖書の読み方
「新幹線から各駅停車へ」とは、かの北森嘉蔵先生の言葉です。
どういう意味か。まずは分かってもわからなくてもどんどん読ん
でいく、何度も繰り返し読んでいるうちに心に留まるみことばに
出会って立ち止まる、だんだん立ち止まる箇所が多くなっていく、
そんな感じでしょうか。
ツンドク(積ん読)信者とかフーポン(読むとき埃をフーと払う)信者とか、聖書を読まない
クリスチャンを揶揄する言葉がありました。今は聞かない言葉でしょうか。クリスチャンでも
聖書を読まない人はたくさんいます。
聖書のまたの名は「不思議な書物」です。
何が不思議って、読むたびに内容が違ってくるからです。
ある時はいたく感動したはずの箇所なのに次にはあまり響いてこない、また逆も。
ある時は「えっ、こんなこと書いてあったの?」と驚く、
毎回語りかけてくるものが違う、違う角度から照らされた真理が迫って来る・・・
そんな不思議さに出会えるのは、聖書を読めばこそです。
まさに、聖書は必然的に新幹線から各駅停車になっていく書物です。
毎日毎日、繰り返し繰り返し、これほど読まれる本がほかにありましょうか?
聖書を読む上で大切なこと、心がけるとよいことをいくつかあげてみます。
① 基本的に最も大切なことは、聖書そのものを読むこと。
初めから注解書や手引書を読むのではなく、まず聖書を読みます。そうしないと、先入観に
とらわれ、正しく読むことの妨げになります。
訳の違う聖書をいくつか読み比べるのもよい方法です。
以前、説教の準備をするのに、「まずはいろんな訳の聖書を読む、すると聖書自身が語りかけ
教えてくれるんだよ」と教えてくださった牧師がいました。
注解書などを開くのはそれからですね。
先入観と言えば、聖書をよく読んでいる人こそ気をつけなければなりません。このみ言葉知
ってる、ここはこういうことを言ってる箇所・・そんな思い込みや知識が邪魔をして、新しい発
見や違った見方をする機会を逸してしまうかもしれません。
② 文脈をとらえて読む。(コンテキスト)
聖書全体あるいはその書全体の文脈という意味と、章の中での文脈という意味とがあると思
います。
聖書全体をとらえるには「通読」がおすすめです。創世記から黙示録までを通して読むとい
うことです。毎日旧約を3章、新約を1章ずつ読むと一年で一回読めるそうです。
ある牧師から聞きました。礼拝や学びの時に使う聖書には、書き込みや傍線が引いてあった
りするので、通読用に、一番安いのでかまわない、まっさらの聖書を用意するのだと。
これも先入観を捨て、新しい気持ちでみことばに向き合うためによい方法だと思います。
好きなみことばとか、力をもらえるみことばとか、確かにありまして、そこだけ切り取って
使われることもあります。み言葉は生活の中に適用されて意味をもつものですから、そうした
使い方も間違ってはいませんが、まず、本来の意味を理解するということが大事です。
例えば、イザヤ43章。4節や7節は特に好まれる聖句だと思いますが、ここで言われている
「あなた」はイスラエルのことであって、個人のことではありません。
それはここに至るまでに各章で諸外国への主の裁きが述べられ、この章の1節にイスラエル
よ、と呼びかけていることからも明らかです。主は民族としてのイスラエル、ご自分が選び愛
しているイスラエルについてこのように言われているのだということを知ることは、聖書が人
類の救済についての啓示の書であることを受け止めるために重要なことだと思います。
その上で、そのイスラエルの一人である自分に置き換える、ということがなされるのであれ
ば、み言葉を勝手に解釈し、適用したことにはならないでしょう。
私たちは訳は違えど日本語の聖書を読んでいることが多いと思います。もちろん、翻訳者は
その言語に精通していて、また釈義学なども学ばれているので、そのヘブル語、あるいはギリ
シャ語にどの訳語を当てはめるのが正しいかを判断しながら訳しているのですが、なかなか原
語のニュアンスをその通り伝えるのは難しい場合もあります。
原語に使われている言葉を知り、それの意味するところを知る、ということも、文脈で理解
する大きな助けになります。
③ 何度も出てくる言葉に留意する。
何度も同じことを言うのは、どんな場合ですか? それが大事な事で聞き逃してほしくない
場合。あるいは印象づけ記憶に残したい場合ですよね。それはどの国の人も同じだと思います。
ヘブル人は特にそれを意識しているようです。
例:イザヤ43:10-13「わたし」15回、 ホセア11:8「どうして」4回、ヨハネ1:4-9「光」
6回、詩篇57:1「あわれんでください」75:1「感謝します」繰り返し、など)
④ その記事の登場人物、何が起こって、どう決着したか・・というように内容の整理をして読む。
⑤ さらに深い学び、み言葉の理解をするためには注解書や、辞典、などが役に立ちます。
その際は、著者や発行所などが正当なキリスト教の立場に立っていて、信頼できるものである
かを確認することが大切です。そうした参考書を使わなければ分からないことが沢山あります。
知識の広がりが聖書の世界の広がりに通じることは否めません。
聖書は誰にも読める、わかる・・と言われますが、そんなことはありません。ある意味聖書ほ
ど難解な書物はないのではないかと思わされます。
イエス様はたとえ話をする時、聞いた人が、自分の理解力、信仰によって理解すればよいと考え
ておられたようです。同じ話を聞いても、表面的に理解する人、真意をくみ取る人、そこに二
重に含まれている意味まで悟る人・・と違いがあります。あってよいのです。
「耳のある人は聞きなさい。」
その記事が書かれた背景、社会状況、習慣、登場人物・・などを知ることによって、書かれて
いることを多面的に理解することが出来ます。そうすると、今まで思っていたのとは違う見方、
違うメッセージに目を開かれるということを体験できます。
これを「点から線へ、線から映像に」とおっしゃった先生がいらっしゃいましたが、穿った言
葉だと思います。知識が世界を広げ、みことばが生き生きとしたものとなって迫ってくる、その
醍醐味をぜひ味わっていただきたい。
聖句をうろ覚えの時、知っているが場所が分からない時、力強い助人になるのがコンコルダン
スです。その聖句の一部でも覚えていれば検索することができます。
(対応が新改訳、新共同訳などいろいろあります。)
(参考文献:新キリスト教辞典、新エッセンシャル聖書辞典、
「聖書を正しく読むために」G.D.フィー/ D.スチュワート共著・和光信一訳、他)
ひばりが丘キリスト教会
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