(5)働かざる者食うべからず

 

聖書のどこにこんな言葉が? あります。Ⅱテサロケ人への手紙3章10節。これはイエスさまではなく、使徒パウロの言葉です。「『働こうとしないものは、食べることもしてはならない』と命じておいた。ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。」

 

レーニン憲法、スターリン憲法に「働かざる者食うべからず」がスローガンとして掲げられていたのは衆人の知るところですし、現在の日本国憲法でも労働は国民の三大義務の一つとして謳われています。(「働かざる者~」とは言ってませんが。)ウキペディアには「徒食を戒める言葉」と説明されています。パウロはなんでこんなことを言ったのでしょうか?テサロニケはマケドニア(現在のギリシャ)の都市で、よい港に恵まれ貿易がさかんに行われ、交通の要衝ともなっていました。ここにパウロの第二回伝道旅行の時に教会が出来ました。ところが、しばらくすると、パウロの教えを誤解して再臨がすぐに来ると騒ぎ出す者たちが出ました。彼らは、すぐにこの世は終わりを迎えるのだ、そうしたら何をしても無駄だ、働いたってしょうがない、そう考えて怠惰な、放縦の生活に転じて行きました。

 

明日この世が終わるとしたら何をしますか?と訊かれて、いつものように起き、いつものように食事をして・・と答えた高名な牧師がいたと聞いたことがありますが、人間、明日でこの世が終わる、すべてなくなる、となったら、なかなか平常心ではいられないものです。とは言え、一日や二日の事ならともかく、終わる終わると言いながらちっとも終わらないのに、働かないで怠惰に暮らしているとしたら、困った人、迷惑な人という誹りを受けても仕方ないかもしれません。 そんな人が「ごはん食べさせて」「ちょっと、お金かして」・・とやって来たらどうします?根無し草の様にふらふらとし、あっちへ流れては絡みつき、こっちへ流れては漂い、そんな生活をしている人たちにパウロは言ったのです。「静かに働いて自分で得たパンを食べなさい」。心を落ち着けて自分のなすべき仕事をしなさい、と。パウロの言う「働かざる者」は働けるのに働かない人のことで、心身に弱さがあったり考慮すべき理由がある人のことではありませんので誤解なきよう。

 

キリスト者はイエス様の再臨を信じています。しかし、それはいつ来るかわからないと書いてあります。いつ来ても大丈夫なように日々の生活をみこころに適ったように過ごしていくのが正しい生き方です。その生活の基盤になるのが労働です。「静かに働いて」という言い回しには、黙々と、着々と、仕事に励む姿が見えます。自分で生活の糧を得ることは、生活を安定させるだけでなく、喜びや、充実感などをも齎す営みと言えましょう。流言に惑わされず、いつも平常心を保って、自分の務めを果たせる者でいたいですね。

 

 

ここでちょっと寄り道 《新聖歌427の歌詞にみる神様の名前》

 

救い主・・・ヤッハウエ・イルエ「主は与えてくださる」

 創世記22:7-8。アブラハムがイサクをささげた記事。燔祭の雄羊が用意されていた。アドナイ・イルエ「主の山に備えあり」。イエス 

 様の称号の一つは「神の小羊」。イエス様は私たちにご自身をささげられました。ヤッハウエ・ローイ「主は私の羊飼い」詩篇23篇

 

 きよめ主・・・ヤッハウエ・ムカデシュ「聖別して下さる主」

 レビ記20:8 「・・・わたしはあなたがたを聖別する主である」

 (7)「ゆえに、あなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。 わたしはあなたがたの神、主である」

 

 癒し主・・・ヤッハウエ・ロフェー「主は癒される」

 出エジプト記15:22-26 「わたしは主であって、あなたを癒す者である」エジプトを出て、シュルの荒野に入った民は、三日間水が飲ま 

 なかった。やっと辿り着いたメラの水は苦くて飲めず、不平を言った。主の示された一本の木を投げ入れると甘くなった。この木はイ

 エス様の十字架を予表している。

 

 王の王・主の主・・・エル・シャダイ「神は全能である」(全能の神)  

 創世記17:1-2 「私は全能の神である」アブラハムが99歳の時に現れた主ご自身がそう名乗られた。この時アブラムはアブラハム  

 という名を賜った。

 

 わが義・・・・ヤッハウエ・ツィドゥケヌー「主はわたしたちの正義」(私たちの正義である主)

 エレミヤ23:5-6 「その名は『主はわれらの正義』ととなえられる」将来おいでになる「正しい若枝」「王」のこと。イエス様はエッ

 サイの若枝として預言されている。『義』とは、「神の律法と人の定めた基準に合うこと、またそれに従って生活すること」。

 『義』は神の本質。

 

 神様の名には本質や属性が表されています。たくさんの名前で呼ばれ、また自ら名乗られた主は、それだけ豊かな内実のあるお方だと

 いうことです。神様の名前を知るということは、神様ご自身を知ることにほかなりません。歌詞にあふれた神様の名前を思いながら、

 新聖歌427番を賛美してみてください。

ダビデは祈りの時、「わたしの義を守られる神よ」「わが力なる主よ」「わが岩。わが城、わが盾、わが救いの角」・・・と、たくさ

んのことばで呼びかけています。そこに、ダビデの信仰と神認識の広さ、「主」との深い絆、交わりの深さなどを感じます。 

あなたは神様にどんな呼びかけをしていますか?

 

 

 

(参考文献:新キリスト教辞典、バークレー注解書、ウィキペディア)