(6)人はパンのみに生きるにあらず
フランスの王妃マリー・アントワネットが、国民の飢えの窮状を聞いて「パンが食べられなかったらお菓子を食べればいい」と答え
たという有名なエピソードがあります。これを聞いて、あきれ顔をする人、馬鹿なやつ、そういうことじゃないだろと思った人は多
いと思います。この時代、パンが食べられない人がお菓子の様な高級品を食べられるはずがなかったのは言うまでもありません。
あなたはどう解釈してこの言葉を使いますか? 「パンがなくてもご飯やうどんがあれば生きていける(パンの他にも食べ物はあ
る)」「パンだけじゃだめだ、おかずも必要だ」ですか? あるいは、「パンを得ようとすることのみのために生きているわけでは
ない」「生命を維持するだけでは生きているとは言えない」でしょうか?
よく「オレは釣りが趣味で、釣りさえしてればメシは要らない」とか、「私は奇麗なもの豪華なものが大好き、そういうものに囲ま
れてれば、食べなくても満足」とかいう人がいます。そう言ってる人も、実はちゃんとご飯食べてるんですけどね。価値観の問題で
す。何を第一にするか、何に価値を見いだすか、何によって生かされるか。
エジプトから脱出したイスラエルの民は、40年の間荒野を放浪しました。そして、やっと神様の約束された「カナンの地」に入れる
所まで来ました。40年の間に世代の交代があり、出エジプトの出来事を知らない世代のためにモーセはこれまでのことを語り聞かせ
ました。それが申命記です。その8章3節にあるのが、「人はパンのみで生きるにあらず」という言葉です。
人は、パンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたがたに知らせるためであった。
これは、荒野で食べるものがなく空腹に耐えられず文句を言う民に、神様が天から「マナ」を降らせて養って下さったこと、またそ
れがどういう意味であったかを教える時に使われた言葉ですが、前半だけが独り歩きしてしまっているようです。
イエス様は公生涯に入る前にサタンの試みに遭われました。40日40夜の断食の後、空腹になられたところでサタンがパンの誘惑をし
てきました。その時、イエス様はこの言葉を引用してサタンを退けられました。(マタイ4:4 )。
「食べること」は生活の根幹です。飢えたら人間何をするかわからない・・悲しいですが現実です。本能ですから。これはなくては
ならないものです。だからこそ、神様はマナを降らせて民を養われました。しかし、それだけでは不十分なのだと言うのです。
神様は人間をご自分に模って造られました。その本来の在り方、生き方をしていくために必要なのが「主の口から出るすべてのこと
ば」なのだ。パンは必要だ、しかしそれと同じくらい、いやそれ以上に大切なのが「神の言葉を聞き、従うことだ」と教えているの
です。
イエス様はご自身を「わたしは命のパンです」とおっしゃいました。ヨハネ6:26-35。「神のパンは、天から下ってきて、この世に命
を与えるものである。」と。
エゼキエルは主に導かれてある谷に置かれた。そこにはおびただしい枯れた骨があった。
主はこの骨に命じて生き返らせろと言う。エゼキエルは半信半疑ながらその言葉に従った。
すると、その骨に筋が出来、肉が生じ、皮がこれを覆った。しかし、息はなかった。
主はさらに言われた。息に預言して、四方から吹いてきてこの殺された者たちを生かさせよ。
エゼキエルはその言葉に従った。すると、息は彼らの中に入り、彼らは生き、はなはだ大いなる
群衆となった。(エゼキエル書37章1節~10節)
マナ
「マンナ」(森永製菓)の名の出どこはこれ。
これを見た民がヘブル語で「これは何だろう?」
マーン・フーンと言ったことによると言われる。
どんなものかと言うと、
「地に降りた白い霜のようなもの」
「うろこのような細かいもの」
「コエンドロの種のようで、白く、
その味は蜜を入れた煎餅のようなもの」
臼でひいてパン菓子にして食べた。クリームのような味だった。
(出エ16章4節、31節他)
(参考文献:新キリスト教辞典、バークレー注解書、ウィキペディア)
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